【アカビジ】マクロコミュニケーション通信

アカデミックとビジネスの両立を目指す、強くありたい人財を応援するマクロコミュニケーション通信

「アカビジ」な解釈【「コミュニケーション力」とは①】

こんばんわ。


ヒューマンキュレーターの松下です。

人材エージェントとして、


日々多くのサラリーマンや事業者と出会うなか

人や自分自身のこと、


また、世の中と向き合う機会が多いので

そのなかで、


気付いたことをシェアできればと思い、
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ここから本題↓↓

 

本日も前回に続き、

 

日常で使われるありふれた言葉

を「アカビジ視点」から捉え直してみようと思う。

 

今回は、

 

非常によく使われる
「コミュニケーション力」という言葉について。

 

「コミュ力」「コミュ障」などと略語が出回っているとおり

 

「コミュニケーション力」が今の世の中で重要視されている。

 

私自身がこの言葉は重要視しており

 

転職支援などで人と会う際、

 

「コミュニケーション力」に主眼を置いた助言をすることが多いし、

 

私自身に対しても含め、

 

社会人が「コミュニケーション力」を向上させていく文化の到来を願っている。

 

だが、

 

そもそも人に「コミュニケーション力とは何か?」と尋ねても

 

意外と曖昧に了解されている場合が多い。

 

まず、

そこのところの定義を明確にしない限り、

 

「コミュニケーション力」の向上も見込めないのではないかという直観から記事を書かせていただく。

 

「コミュニケーション力」は

一度、調べ出すと分かるが

かなり多義的な答えがかえってくる用語である。

 

凄腕の営業マンや

明石家さんまさんのような芸能人を例に挙げたり、

 

結果論として

「こうゆう人はコミュニケーション力が高い」と示したりするのは簡単だが、

 

「コミュニケーション力が高い」と言われる人全てに共通する定義はあるのだろうか?

 

これを考えてみたい。


ウィキペディアを調べてみると、

 

コミュニケーションはラテン語: communicatioに由来しており、「分かち合うこと」を意味している。「コミュニケーション能力」という表現は様々な用いられ方をしており、以下のような意味で使われることが多い。
* 言語による意志疎通能力(#言語学用語の「Communicative competence」を参照)。「コミュニケーション能力」という言葉は、元々は言語学の分野で用いられた学術的な用語であった。
* 感情を互いに理解しあい、意味を互いに理解しあう能力。感情面に気を配って、意味をわかちあい、信頼関係を築いてゆく能力。[1]
* 非言語的な要素(相手の表情、眼の動き、沈黙、場の空気など)に十分に注意を払うことで、相手の気持ちを推察する能力(非言語コミュニケーション)
* 上記の非言語的な要素により知った相手の気持ちを尊重して、相手に不快感を与えないタイミングや表現で、自分の感情や意思を相手に伝える能力
* 意思疎通、協調性、自己表現能力(厚生労働省による就職基礎能力の定義[2])
* 社会技能(ソーシャルスキル)。暗黙知
* 上手にコミュニケーションを行うための体系づけられた知識、技術(コミュニケーションスキル)
* 合意(コンセンサス)形成能力
* 「論理的コミュニケーション能力」(自己の考えを論理的に明確に、相手に表現する能力)
* 会話のキャッチボールを上手く行える能力
* 企業が求人広告等で応募者に要求している「コミュニケーション能力」は、ビジネスシーンにおいて発揮が期待される精選された「折衝能力」「交渉能力」「説得能力」を指しており、必ずしも対人コミュニケーション一般を円滑におこなうスキルをもって満足するものではない

 

というように、

 

「コミュニケーション力」は

 

深く読み進めていくほどどんどん定義が増えてくるというタイプの言葉のようだ。


上記に記載されているどの定義も

経験上に照らしても、正解だと思っている。


だが、

 

「アカビジ」としては

 

こういった辞書的な意味の正確さを求める羅列というより

 

上記のどんなケースにも適合するような本質」
=「真芯を捉えていて、かつ、スッキリとしたシンプルな定義」を追求してみたい。

 

実際に

周りで「コミュニケーション力が高い」とはどんなイメージか聞いてみると

 

「話が流暢に話せる人」
「交渉や営業で結果を出せる人」
「バラエティ番組などで司会進行ができる人」
「話を聴くのが上手い人」
「質問上手」

のように

 

やはり、総じて「会話のやりとりに強い人」
というイメージがポピュラーなようだ。

 

一方、会話だけでなく

古来からある紙媒体から、

 

今の時代ではメールやLINEなどのSNSを介した
「文字を介したコミュニケーション力」も考慮にいれる必要があるだろう。


また、私の大学時代に斎藤孝氏は、

 

「世の中には
仮にたいした発言や質問ができないとしても

その場で交わされる会話の文脈を理解し、

 

適切な「間」で断るごとに

気持ちよく頷いてくれるだけで

その場を活性化してくれるような存在もいて

 

それだけで、十分必要とされることがある」

 

とし、

 

「非言語」を使った「コミュニケーション力」の達人も存在すると仰っていた。

 

実際、

異文化同士で

 

「言語の通じない間柄」でも
ジェスチャー(身振り手振り)を介したり

 

言語自体を使うことが困難な障害の方が
コミュニケーション上手になれたり

 

まだ、言葉を覚え出す前の赤ちゃんのように

笑顔や泣くことによって

 

感情を伝えてコミュニケーションが成立するケースもあるだろう。


上記に挙げたようなものは共通して

 

ウィキペディアではじめに定義されていた

「分かち合うこと」や
「意思疎通能力」といえるかもしれない。

 

「community(コミュニティ、共同体)」

のように

英語のcomという接頭辞が「共同や共有、分かち合う」ことを意味するので、

 

もともとの「コミュニケーション」という言葉はこの「分かち合うこと」や「意思疎通能力」のような定義で片付けられたと思うし、

 

今でも中心的な使い方であると思う。

 

ただ、

言語というのは、

「キュレーター」のような言葉が博物館か
ら、

WEBや他の世界まで拡がったように

その使用されている文化や、時代背景によって

適用される範囲が拡がったり(縮まったり)する

という側面がある。


現代の日本語における「コミュニケーション力」とは、 

 

もともとの英語における
「communication(コミュニケーション)」がもっていた「分かち合うこと」や「意思疎通能力」

以上の意味を含むようになったと、

 

私は考えている。

 

次回は、従来的な定義に変わる「アカビジ」的な「コミュニケーション力」について示唆したい。

 

 

ブログ著者プロフィールはこちら↓
https://human-curator-p.hatenablog.com/entry/2018/03/08/075416

 

 

 

「アカビジ」な解釈【「チョッカン」のイメージ】


こんにちわ。


ヒューマンキュレーターの松下です。

だいぶ気温も上がり、


東京の桜は見頃を迎えてますね^^

 

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本日は、日常で使われる言葉
を「アカビジ視点」から再解釈する。

 

今回は
「チョッカン」について。


ビジネスやスピリチュアルに通じてる方で、

 

「迷ったら自分は「チョッカン」を信じる!」

 

というような発言を好む方が結構多いと思うのだが、

 

この「チョッカン」を漢字で書くとき、
どんな漢字を使うだろうか?

 


恐らく、「直感」と書く人の方が多いのではないだろうか?

 

私も大学時代に影響を受けた

斎藤孝氏の話を聞くまで、

「直感」と書いていたクチである。

 

だが

斎藤氏の話では、

教養のある人ほど

 

「直感」より「直観」の方を好んで使う傾向があるので

意識して使うだけでも、それだけで格が上がる

というような話を聞いた。


そのあたりの細かいことは、

斎藤孝氏の著作『くんずほぐれつ』にも
述べられている。

『くんずほぐれつ』斎藤孝 著↓
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167679385

 

氏の話では、

 

今の大学生に聞くと

大半の学生が迷わずに
「直感」と書く傾向にあるとのことだ。

 

私の肌感覚では

社会人も8割以上は、「直観」でなく「直感」を使っているように感じる。

 

「直感」も「直観」も辞書には掲載されているれっきとした言葉なので、 

 

ここではどちらが正しい日本語か
を議論したいわけではない。

 

ただ、人生の中で「直観」という字を目にすることが必ずあるにも関わらず

 

疑いなく「直感」を即答で思い浮かべて
しまう、という傾向に少し問題を感じる。

 

上述の斎藤孝氏も著作の中で語られていることと重なるのだが、

 

私もこの「チョッカン」に限らず

 

現代の社会自体に

感覚優位に陥りやすいバイアス(偏り)が

働いているのではないかと考えている。

 

※あくまで、感覚を否定しているのでなく
経験則や理性を働かせる視点もなくすべきではないという意味

 

下記に私が考える「直観」を選択するメリットを記載しておくが

私は日本語の先生ではないので、


正しいかどうかではなく、

ひとつの解釈と捉えて、活用できる方に使っていただきたい。

 

【「直感」<「直観」と捉えるメリット】

 

「直感」:
理性<感覚 優位の時代を象徴する表現である。

現代人は迷ったら感覚、センスを信じやすい。

そうすること自体が全面的にダメというわけではないが

 

ややもすれば、

困難なときはいつでも感覚で片付けて、それ以上、推し進めて考えない癖がつく。

(思考停止しやすい)

 

「直観」:
上記の感覚を使うことに加えて、

今までの経験や理性的な視点での判断も一斉に働かせて、綜合的に観ること。

 

(感覚か理性のどちらかが大事なのでなく、同時に働かせるというのがポイント)


「直感」だけで考えると、生まれ持ったセンスみたいなもので、育てようがない感じがある。

 

この概念しかもっていないと
磨いたり、 向上しようと思いにくく

何でも感覚で済ませて逃げる、刹那的に判断する癖がつく。

 

だから、「直感」を「直観」と意識し始めることで、

「自分の能力として、

着実に磨いていけるイメージがもてる

というのが、

 

「アカビジ」的な「チョッカン」の解釈である。


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https://human-curator-p.hatenablog.com/entry/2018/03/08/075416

 

「アカビジ」なポジショニング③ 【尖っているうえに 応用範囲の広いポジショニングをもてる利点】

こんにちわ。


ヒューマンキュレーターの松下です。

 

だいぶ暖かくなり、東京の桜も満開ですね^^

 

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それでは

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前回の記事では、

 

自分がもっている本業の領域と、
アカデミックな領域を組み合わせると

 

簡単に他者より目立ちやすく、
しかも汎用性が高まるので

 

既成の肩書きだけ使うより

 

「尖っているうえに
応用範囲の広いポジショニングができる」

ということを伝えた。

 

今回、私がとっているポジショニングを例に
具体的な利点を示せればと思う。

 

私の場合、

「人財の水先案内人」という意味を込め

 

本業にあたる「ヒューマン(人財)」と

アカデミックな起源をもつ「キュレーター」を融合して

 

「ヒューマンキュレーター」というポジショニングをとっている。

 

実際には、

私のやっていることの大半が

 

一般的な「キャリアアドバイザー」と重なる
サラリーマンの転職に関する助言になるので

「キャリアアドバイザー」のように
通常の言葉で打ち出したほうが
分かりやすいという考え方もできる。

しかし、私の場合、

学生時代の教職課程を経て投げかけられた
「人間理解力」というテーマを
社会に出てからも追求して仕事に取り入れていたり

社会人3年目で1社転職をして
転職によって得られる糧を体験しつつ、

結局は組織でなく、個人としてフリーに動き回る道を選んでしまったという経緯もある。

一般的な「キャリアアドバイザー」が

 

サラリーマンの給料や福利厚生がどうなのか、
世間的な評価がどうなるかといった

表層的な労働条件のメリット、デメリットのことを示すことに加えて

 

自分ならではの切り口で
「キャリアアドバイザー」の枠外の助言もできると思っている。

「相談者にとっての、
人生における「豊かさ」が何なのか」
からスタートして考えるので

「今のままだと、明らかに目指している「豊かさ」に繋がらないから、転職して新たな経験を積んでいくほうがいいのか」

いや、

「転職しても今抱えている根本の問題は解決しないから、

今の環境のなかで余暇を使って読書や人との出会いを通して自習しながら、次の転職や独立の契機に備えたほうがいいのか」

というように、

一般的な「キャリアアドバイザー」より

転職という選択肢のみに縛られることなく、

 

広い観点、自由度の高い選択肢から
相談者に考える隙間を与えられるメリットがあると考えている。

この立ち位置を示すのに「キャリアアドバイザー」という既成の名詞では表現しきれない
という思いから、

「ヒューマンキュレーター」という新しいポジショニングをとったわけだ。

 

このおかげで、

私には

「転職をしたい」という悩みにとどまらず、

「起業した方がいいのか」
「交友関係の幅を広めたい」
「どんな本を読めばいいか」

 

といった多様な切り口をきっかけに

人を紹介いただけることが多い。

 

これが
「尖っているうえに
応用範囲の広いポジショニングをもてる利点」の一例なので、

 

もし参考になる方がいれば、

幸いである。

 

これで、3回に分けた「アカビジ」なポジショニングの話は終わり。

 

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https://human-curator-p.hatenablog.com/entry/2018/03/08/075416

 

 

「アカビジ」なポジショニング② 【「融合術」でアカデミックなジャンルを一つは使う】

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前回は
「アカビジなポジショニング」を打ち出すうえで、

異なるジャンルの概念を組み合わせる「融合術」という「技」が手っ取り早く使いやすい
と紹介させていただいた。

 

今回はその続き。

 

「融合術」を仕事で活かす場合、

 

自分がもっている専門領域(業界や職種)に
どんなジャンルを組み合わせるか

が重要になるが、

 

私は、アカデミックなジャンル(知性・教養を感じさせる)の言葉を一つは使う

 

ということをお勧めしている。

 

理由として、

過去の記事でもアカデミックの効用について触れてきたが、

集約すると以下のようになる。

 

①今の時代ではアカデミックなジャンルを仕事に取り入れる人材が少ない→ライバルが少なく、目立ちやすい。

 

②アカデミックに精通することは、抽象度の高い視点から物事を見られることを意味する。

→話題を状況や相手に合わせて
ミクロorマクロに調整できる=汎用性が高い。

 

例として、

私がポジショニングに使っている「ヒューマンキュレーター」をあげる。

 

「ヒューマン」は、人材紹介の「Human Resources=人材」からとっているのでシンプルだ。

 

一方、「Curator=キュレーター」は馴染みがない方が多いかもしれない。

 

昨今、日本でも
インターネット上では『Naverまとめ』のように「キュレーションサイト」というスタイルがかなり主流になってきていて、

 

「キュレーター」という立ち位置を取る発信者も増えてきている。

 

「キュレーター」は単純に「キュレーションする人」を指すが

 

そもそも、「キュレーション」も「キュレーター」もあまり意味が分からずに


流布されている感が否めない。


ウィキペディアで調べてみた。

 

キュレーター(英語: curator)とは英語由来の外来語である。英語の元の意味では、博物館(美術館含む)、図書館、公文書館のような資料蓄積型文化施設において、施設の収集する資料に関する鑑定や研究を行い、学術的専門知識をもって業務の管理監督を行う専門職、管理職を指す。

 

このように

もともと実は「キュレーター」は
博物館などで従事する

アカデミックなカラーが強い立ち位置である。

 

日本だともともと「学芸員」という資格があるが

 

こちらはどちらかというと

 

決められた枠の中で、
博物館などを管理する職員さんという受動的な印象が強い。

 

対して、欧米圏における「キュレーター」は、

 

独自の目線の研究から、斬新な切り口で展示会をプロデュースする企画まで

 

幅広い範囲で、

個人の裁量に任されるクリエイティブな仕事の意味合いが強い。

 

そして、
近年ではこの「キュレーター」がインターネット上で広義の意味をもつようになった。

 

今では、

「ウェブ上で情報を集めて編集し、

その人なりの切り口を加えて、

 

相手に分かりやすい言葉で
情報発信する立ち位置」のことも

「キュレーター」と呼ぶようになっている。
(一般的にはブロガーのやっていることが典型としてイメージしやすい)

 

この「キュレーター」が、

インターネットの世界にとどまらず、
対面上のリアルも含めて人材業界に必要になってくるという直観から、

 

私は、人材の「ヒューマン」に組み合わせる言葉として「キュレーター」を採用した。

 

「リサーチャー」などと同様に

「キュレーター」のようなアカデミックなジャンルの言葉は汎用性が高いからであり、

 

「ヒューマンキュレーター」に限らず、

「裁判調停キュレーター」
「旅行コースキュレーター」
「映画キュレーター」
「ファッションキュレーター」
「お洒落バーキュレーター」…のように

 

「キュレーター」のような言葉は
「融合術」で新しいポジショニングを打ち出すには使いやすい。

 

そのほかにも、
アカデミックなジャンルに属する言葉はたくさんあり、


「芸術(アート)」「科学(サイエンス)」「化学ケミストリー)」といった言葉も応用しやすいと思う。

 

次回は、

私が採用している「ヒューマンキュレーター」という概念をもう少し掘り下げて

「アカビジ」なポジショニング」の話を締めくくろうと思う。


ブログ著者プロフィールはこちら↓
https://human-curator-p.hatenablog.com/entry/2018/03/08/075416


「アカビジ」なポジショニング① 【「融合術」を使うと手っ取り早い】

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こちらのブログでは、

リベラルアーツ(知性・教養)+ビジネス(実学)の融合=アカデミックビジネススタイル

略して「アカビジ」という視点を

 

日常のビジネスやプライベートに取り入れることにより、

 

限られた人生のなか、惜しみなくほんとうの

「豊かさ」を追求していく生き方を提案している。

 

今回からは、現代社会のなかで、

具体的にどんな「アカビジ」なポジショニングができるのか例を示していきたいと思う。

【「融合術」を使うと手っ取り早い】

 

私は、自慢ではないが

新しい肩書きやアイディアを考えるときに

 

全くの0から新しい言葉を生み出したり

 

いかにもクリエイティブな概念を創り出すというのは、得意でないタイプの人間だと思っている。

 

だが、そんな自分にも

 

簡単に新たな概念を生み出せる方法として

「融合術」とネーミングしている「技」を採用している。

 

実は、「融合術」は


私が少年期にはまり込んだロールプレイングゲームに出てきたシステムから着想を得ている。

 

私の好きだったロールプレイングゲームでは

「戦士」や「武道家」など

自分の好きに職業が選べる転職システムというのが出てくる。

(こういうと分かる人にはすぐ分かってしまうメジャーなRPG)

 

そのなかで

「上級職」という概念がはじめて登場した時、とても心が踊り

(ゲームの主人公としてだが)
その「上級職」に就けることに強く憧れたことを覚えている。

 

「上級職」とは、

「戦士」+「武道家」=「バトルマスター
「武道家」+「僧侶」=「パラディン

のように

 

複数の職業を経験してマスターすると

アップグレードした上位の職業に就けるというシステムだ。

 

考えてみれば
単純な仕組みなのだが

 

当時、

「魔法使い」と「戦士」のような、まるで路線が真逆にすら思える

違う職業が組み合わさって

魔法戦士」にアップグレードできて

 

火炎斬り、いなずま斬りのような

新しい特技が使えるようになるというのは
とても魅力なことに感じ、

 

1日も早くその条件を満たしたいと
レベル上げに励んだりした。

(実際のところ、はじめに選んだ魔法戦士は、労力のわりにリターンが少ない上級職で苦労したが…)

 

なんにせよ、この経験から

 

新しい概念は意外なほどに簡単に生み出されるんだという感覚が印象に残ったのが

自分にとって大きかった。

 

このように生まれた「融合術」は、

「技」といっても至って単純なもので

既存の概念を組み合わせる言葉遊びに近い。

 

現在、常用語になっている
「アシスタント・プロデューサー」
プレイングマネージャー


のような、あらゆる既成の言葉も

 

もともとは、別の分野だった既成概念を組み合わせて生まれ、それがいつのまに常識化したものだろう。

 

こういった
組み合わせ力(こじつけ力?)というのを
個人でも自由に駆使して、

 

大胆に新たな概念を
生み出すという「技」が「融合術」である。

 

私のようにクリエイティブな発想を苦手とする人間でも既成概念を
組み合わせるだけなので、

無限に可能性は開かれている。

 

お気付きであるとおり

「アカビジ」というのも、
アカデミック+ビジネス

という単純な組み合わせで生まれた概念だ。

 

「融合術」はこのように簡単に誰でも実践できるお気軽なものだが、

 

やってみるとなかなか奥が深いもので

 

どの分野を組み合わせるのかは
個人のセンスが発揮されるので
「技」と捉えている。

 

既に存在するものを繋げるだけで

ありそうでなかった新分野を掘り出せる。

 

例えば、

「料理」がもともと好きで、

歴史が趣味で「戦国時代」にもそこそこ

詳しいという人であれば、

 

織田信長武田信玄

が現代にきたら、きっとこんなものを頼みそうだというメニューを考えて

 

「戦国料理家」みたいなポジショニングを

してみるのもありだと思う。

 

ライバルが多い料理家の世界のなかで、

ただ「一流の料理家」と打ち出すより

ずっと印象に残りやすいだろう。

 

こういった「融合術」は、

 

0→1で新しいものを創るのとは
違うかもしれないが

これはこれでクリエイティブな楽しみがある。

 

私自身の例を出すと、

実業的には主に人材エージェントとして
サラリーマンの転職支援をしたり

 

小さな会社の人事の手伝いをしたりしているが、

 

ここで、一般的な「キャリアアドバイザー」のように名乗らずに

「ヒューマンキュレーター」という立ち位置をとっている。 

 

次回は、
私が「融合術」で造語した「ヒューマンキュレーター」という概念を通して、


「アカビジ」なポジショニングについて
書きたいと思う。

 

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アカデミックであるために、学歴は条件に入らない時代だ!!

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私はこのブログや、
日常でリアルに出会った方に対して

 

仕事やプライベートで一際目立った結果を出したいのであれば、
アカデミックな要素を取り入れることを提案している。 

そんな活動のなか、たまにあがる声として、


「自分は高卒だからアカデミックなことと疎遠だった、苦手意識がある」
というように、

アカデミックであることの条件に高学歴が必要と勝手に捉えたり 

アカデミックであることに
妙に高いハードルを設けて考えてしまう方がいる。


そんな方に安心してほしいのは、

今の時代、

大学や大学院を卒業してなくても 
アカデミックな領域に長じた人財になる

ことは十分可能である。


大昔であれば、

大学のような機関に入らない限り

 

リベラルアーツ(知性・教養)や先進的な知に
アクセスできなかったという事情があったが、

 

いまや、インターネットで
海外の大学の論文を閲覧することも可能なので、

 

子供から大人まで好奇心さえあれば、
誰にでも莫大な知が開かれた時代である。

 

そもそも今は、
「勉強するために大学へ行く」と本気で考える人は少なく、

 

「就職のために有利だから進学する」

というのが大半の進学者の本音だろう。
(大学院は違うのかもしれないが)

 

当然ながら
学生は目的意識がリベラルアーツ(知性・教養)
のような広い知の習得には向きづらいし、

大学側でも教養科目を減らして、実学重視の姿勢をとる所が多い。

だが、
実学というのは社会に出て仕事の現場に行けば
嫌でも身につくものなので、

学生のうちほど教養をつけさせるというのが本来の高等教育機関の役割の一つだ。

にもかかわらず、実際には
受験勉強でいくら偏差値が高かった方でも

受験が終わると同時に
大半の知識を忘れてしまい、

まして、社会生活の中で
アカデミックな知識を活かせている人財は
稀である。

 

ということで、

今は(悲しいことではあるが)

大学卒でも実学にばかりウェイトを置き
アカデミックな素養を養うことを重視している人財は少ない、というのが現状である。

だからこそ、
有名大学を出てなかろうが、中卒だろうが 

自分のやりたいペースで
好奇心をもって仕事外の世界にも視野を拡げて

本やインターネットを通して
良質な知に触れて

アカデミックな素養を磨いていくと良いのだ。

 

受験勉強ほどにエネルギーをかけなかったとしても、 

そんな習慣がある人財自体が周りに珍しくて
希少性が高いので 

簡単に一目置かれることになるし、

実学だけを直球で学び続けて目立った結果を出すのより、

よほどライバルが少なく、やりやすい道なのでお勧めしたい。

 

リベラルアーツ(知性・教養)は
広く深いので

何から手をつけていけば良いのか
分からないという方は、

斎藤孝氏の本を紹介しておく。

https://bookmeter.com/books/11232483

(『知性の磨き方』斎藤孝著)

 

ブログ著者プロフィールはこちら↓

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【アカデミックの効用③】なぜ、あらゆるジャンルのなかで、特にアカデミックが優位なのか?=広く深い土壌をもてることで 話題の抽象度を自在に調節できる希少性の高い存在になれるから

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今回は「アカデミックの効用」について最後の回。

 

②でも述べたとおり、

現代は情報が洪水のように氾濫している時代で
この中で
「自分の状況に必要でジャストフィットするような情報を見つけることは難しい」

と誰もが感じやすい時代である。
 

ややもすれば
「自分に今、必要な情報は何なのか」

はもちろん

「自分がどこにいるのか(どこに向かっているのか」
も見失いがちになる。


このなかで、

時事、流行、ノウハウといった旬な情報だけを
追い続けるというのは、
非常に大変なことであり、また、非効率とも言える。

(旬な情報を追うこと自体は現代人に最低限、
必要なことなのだが、「これだけ」を追うのは非効率という意味)


なぜなら、旬な情報とは、まさに新鮮なうちだから価値があるものであって

 5年、10年以上生き残るような長いタームで積み重なっていくものではないからだ。

 金融の言葉で言うと、「単利」という概念が近いと思う。

 

これに対して、アカデミックとされる領域の情報=リベラルアーツ(知性・教養)とは、

長い単位で人類が積み重ねてきたもので
いわば、「複利」的に価値が膨れ上がっていく知である。

 

例えば、歴史や文化、宗教、クラシック音楽といった世界は、

あからさまに過去から現在までの
積み重ねを意味する分野であるし、 


それらより純然なる競争の意味合いが強い

哲学や科学といった世界であっても 

ソクラテスからデカルト、カント、ニーチェ
ニュートンからアインシュタイン、ホーキングへ

といったように、長い時間をかけて
より妥当と言える考え方が評価され、
バトンされ続けているゲームのような性質がある。

これらはいずれも 

たった1人のスーパースターが短期間に創りあげたというものではなく
100年以上の歳月をかけて人類がリレーしてきた叡智とも言えるので、

簡単には崩れづらい豊かな土壌になってくれる。

 

こういった安定性の高い、豊かな土壌を自分の中に確保したうえで、

日々の旬なものに当たっていくと、

何が普遍性があり、
次世代まで残っていきそうなものなのか

自ずと判別できる「目利き力」が磨かれる。


それまで垂れ流しにしていた情報のなかに意味づけという加工を施して
有用なネタのストックとして無尽蔵に取り込めるようになる。


また、リベラルアーツ(知性・教養)という
広く深い土壌を自分の中に育てることにより、

 

「抽象度を高くものごとを観る」ことができ、
文脈に合わせて考え方や表現を自在に変えられる

ということも大きなメリットである。

 

脳科学や数学の好きな方にはお馴染みの

「抽象度(Level of Abstraction)」という概念がある。

 

定義は調べればネットでいくらでも出てくるので、
細かく知りたい方は各自調べてほしいが


例を出せば簡単で

 

[抽象度低]                                         [抽象度高]
ポメラニアン  小型犬   犬   動物   生物 ……存在

 

といったように、


[抽象度低]に向かうほど具体性が高くなり、逆に、指し示せる対象は狭くなる。

 

[抽象度高]に向かうほど具体性は下がり、逆に、指し示せる対象が広くなる。

 

ここで注意してほしいのが、

上記で「抽象度を高くものごとを観る」
といったのは、

「存在や宇宙、愛といった抽象度の高い言葉ばかり多用する」
という意味ではない。

 

刻々と変わっていく文脈のなかで、

「視点や表現の抽象度を高くすることも下げることもできる」のが
「抽象度を高くものごとを観る」ことができる存在である。

 

だから

「抽象度の高い言葉」しか扱えないのも
「抽象度の低い言葉」しか扱えないのも
〔抽象度が低い視点〕に属する。

言い方を変えれば、「自由度が低い」と言える。

 

少し哲学寄りの表現になってしまっているが、

 

一般的な経験に沿って伝えるなら、

営業マンや学校の先生で、
話が上手いと言われたり、印象に残っているのは
例外なく、喩え話が上手い人たちではないだろうか?

 

子供相手に話すのであれば、
「『ワンピース』のルフィだったら...」

ビジネス好きの方には、
堀江貴文さんの『ゼロ』に書いてあったとおり...」

ご年配で教養のある相手と話す時には
「『論語』で孔子も言ってるように...」

 

といったように

 

話す相手や文脈に合わせて
話題をチョイスし
気の利いた喩え話ができる人は、

話が分かりやすい、おもしろいと評価されやすい。

 

逆に、下手な営業マンは

誰が相手でも同じような話題をチョイスし、
相手に通じない喩えを使ってしまったりする。

 

極端な話、ビジネスに興味をもたない主婦と話す時にも

「コンセンサスが…レバレッジが…マネジメントが…アンドリューカーネギーは…」

といったように

 

相手が理解しているかも分からないネタや言葉を連呼してしまうのは愚の骨頂だろう。
(いささか、極端に下手過ぎる例だが、これに近いビジネスマンに会うこともある)

 

まとめると、

会話をしている相手やその状況に合わせて
話題をマクロorミクロに調整したり、

相手の好む引用ネタをチョイスし、
相手が理解しやすいベストな喩え話を
できるという人財は、

営業マンとしても結果を出すし、

それ以外の職種の仕事の場合や、プライベートでの交友関係においても

各分野の専業化が進む時代のなかにあって
なおさら希少性が高いので、

一目置かれる存在になる。

 

そして、

そういった存在であるために

リベラルアーツ(知性・教養)という
広く深い土壌を自分の中に育て

「抽象度を高くものごとを観る」力を養うのが
効率的な戦略であると、私は提案したい。

 

3回に分けて掲載してきた
「アカデミックの効用」についてはこれで終わり。

 

アカデミックの有効性について
興味が湧いた方は下記のサイトなどお勧め↓
http://frompage.jp/ynp/liveralarts/
(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院長 上田 紀行 先生『リベラルアーツについて知る』)

 

 


ブログ著者プロフィールはこちら↓

https://human-curator-p.hatenablog.com/entry/2018/03/08/075416