【アカビジ】マクロコミュニケーション通信

アカデミックとビジネスの両立を目指す、強くありたい人財を応援するマクロコミュニケーション通信

【アカデミックの効用③】なぜ、あらゆるジャンルのなかで、特にアカデミックが優位なのか?=広く深い土壌をもてることで 話題の抽象度を自在に調節できる希少性の高い存在になれるから

こんにちわ。
ヒューマンキュレーターの松下です。

 

人材エージェントとして、
日々多くのサラリーマンや事業者と出会うなか

人や自分自身のこと、
また、世の中と向き合う機会が多いので

そのなかで
気付いたことをシェアできればと思い、
ブログを更新しています~。

 

ここから本題↓↓

今回は「アカデミックの効用」について最後の回。

 

②でも述べたとおり、

現代は情報が洪水のように氾濫している時代で
この中で
「自分の状況に必要でジャストフィットするような情報を見つけることは難しい」

と誰もが感じやすい時代である。
 

ややもすれば
「自分に今、必要な情報は何なのか」

はもちろん

「自分がどこにいるのか(どこに向かっているのか」
も見失いがちになる。


このなかで、

時事、流行、ノウハウといった旬な情報だけを
追い続けるというのは、
非常に大変なことであり、また、非効率とも言える。

(旬な情報を追うこと自体は現代人に最低限、
必要なことなのだが、「これだけ」を追うのは非効率という意味)


なぜなら、旬な情報とは、まさに新鮮なうちだから価値があるものであって

 5年、10年以上生き残るような長いタームで積み重なっていくものではないからだ。

 金融の言葉で言うと、「単利」という概念が近いと思う。

 

これに対して、アカデミックとされる領域の情報=リベラルアーツ(知性・教養)とは、

長い単位で人類が積み重ねてきたもので
いわば、「複利」的に価値が膨れ上がっていく知である。

 

例えば、歴史や文化、宗教、クラシック音楽といった世界は、

あからさまに過去から現在までの
積み重ねを意味する分野であるし、 


それらより純然なる競争の意味合いが強い

哲学や科学といった世界であっても 

ソクラテスからデカルト、カント、ニーチェ
ニュートンからアインシュタイン、ホーキングへ

といったように、長い時間をかけて
より妥当と言える考え方が評価され、
バトンされ続けているゲームのような性質がある。

これらはいずれも 

たった1人のスーパースターが短期間に創りあげたというものではなく
100年以上の歳月をかけて人類がリレーしてきた叡智とも言えるので、

簡単には崩れづらい豊かな土壌になってくれる。

 

こういった安定性の高い、豊かな土壌を自分の中に確保したうえで、

日々の旬なものに当たっていくと、

何が普遍性があり、
次世代まで残っていきそうなものなのか

自ずと判別できる「目利き力」が磨かれる。


それまで垂れ流しにしていた情報のなかに意味づけという加工を施して
有用なネタのストックとして無尽蔵に取り込めるようになる。


また、リベラルアーツ(知性・教養)という
広く深い土壌を自分の中に育てることにより、

 

「抽象度を高くものごとを観る」ことができ、
文脈に合わせて考え方や表現を自在に変えられる

ということも大きなメリットである。

 

脳科学や数学の好きな方にはお馴染みの

「抽象度(Level of Abstraction)」という概念がある。

 

定義は調べればネットでいくらでも出てくるので、
細かく知りたい方は各自調べてほしいが


例を出せば簡単で

 

[抽象度低]                                         [抽象度高]
ポメラニアン  小型犬   犬   動物   生物 ……存在

 

といったように、


[抽象度低]に向かうほど具体性が高くなり、逆に、指し示せる対象は狭くなる。

 

[抽象度高]に向かうほど具体性は下がり、逆に、指し示せる対象が広くなる。

 

ここで注意してほしいのが、

上記で「抽象度を高くものごとを観る」
といったのは、

「存在や宇宙、愛といった抽象度の高い言葉ばかり多用する」
という意味ではない。

 

刻々と変わっていく文脈のなかで、

「視点や表現の抽象度を高くすることも下げることもできる」のが
「抽象度を高くものごとを観る」ことができる存在である。

 

だから

「抽象度の高い言葉」しか扱えないのも
「抽象度の低い言葉」しか扱えないのも
〔抽象度が低い視点〕に属する。

言い方を変えれば、「自由度が低い」と言える。

 

少し哲学寄りの表現になってしまっているが、

 

一般的な経験に沿って伝えるなら、

営業マンや学校の先生で、
話が上手いと言われたり、印象に残っているのは
例外なく、喩え話が上手い人たちではないだろうか?

 

子供相手に話すのであれば、
「『ワンピース』のルフィだったら...」

ビジネス好きの方には、
堀江貴文さんの『ゼロ』に書いてあったとおり...」

ご年配で教養のある相手と話す時には
「『論語』で孔子も言ってるように...」

 

といったように

 

話す相手や文脈に合わせて
話題をチョイスし
気の利いた喩え話ができる人は、

話が分かりやすい、おもしろいと評価されやすい。

 

逆に、下手な営業マンは

誰が相手でも同じような話題をチョイスし、
相手に通じない喩えを使ってしまったりする。

 

極端な話、ビジネスに興味をもたない主婦と話す時にも

「コンセンサスが…レバレッジが…マネジメントが…アンドリューカーネギーは…」

といったように

 

相手が理解しているかも分からないネタや言葉を連呼してしまうのは愚の骨頂だろう。
(いささか、極端に下手過ぎる例だが、これに近いビジネスマンに会うこともある)

 

まとめると、

会話をしている相手やその状況に合わせて
話題をマクロorミクロに調整したり、

相手の好む引用ネタをチョイスし、
相手が理解しやすいベストな喩え話を
できるという人財は、

営業マンとしても結果を出すし、

それ以外の職種の仕事の場合や、プライベートでの交友関係においても

各分野の専業化が進む時代のなかにあって
なおさら希少性が高いので、

一目置かれる存在になる。

 

そして、

そういった存在であるために

リベラルアーツ(知性・教養)という
広く深い土壌を自分の中に育て

「抽象度を高くものごとを観る」力を養うのが
効率的な戦略であると、私は提案したい。

 

3回に分けて掲載してきた
「アカデミックの効用」についてはこれで終わり。

 

アカデミックの有効性について
興味が湧いた方は下記のサイトなどお勧め↓
http://frompage.jp/ynp/liveralarts/
(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院長 上田 紀行 先生『リベラルアーツについて知る』)

 

 


ブログ著者プロフィールはこちら↓

https://human-curator-p.hatenablog.com/entry/2018/03/08/075416